ADMIN TITLE LIST
Selected category
All entries of this category were displayed below.

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

web拍手 by FC2
5An05231.jpg

今回はちょっと趣向を変えて、警察庁長官狙撃事件の使用拳銃について
考えてみたい。

まず、この事件の被害者となられ、今も後遺障害と闘っておられる元警察庁長官 
國松孝次氏には、謹んでお見舞い申し上げる。
そして、敢えて今このような文章を発表するのは、事件について個人も含め
幅広く立場の違う視点から検討、意見交換がなされ、真実が追求されることが
有用かつ必要な事ではないか、また真相の解明こそが被害者である氏の望み
ではないか、と考えるためである。

この事件は容疑者とされた人物の渡航歴を考慮しても、既に公訴時効を
迎えており、今後被告の立場となる者はないと思われること、この文章を作成する
にあたって、直接資料などを見聞きした訳ではないこと、また犯行などの行為に
ついては厳しく追及したいが、個人的に容疑をかけられた者、捜査関係者に
対し、中傷や非難の意図は無いため、わかりにくくなる可能性はあるが、関係者
は敢えて実名ではなく、イニシャルのみ記載することをご了承願いたい。

[経緯]
今年8月31日、TV朝日系列で、「世紀の瞬間 未解決事件」という番組が放送
された。
この中で、1995年3月30日に発生した警察庁長官狙撃事件について、
鹿島圭介氏の著作「警察庁長官を撃った男」をベースに追跡取材を行い、
Nの犯行を疑っている。

この番組を見て、疑問に思ったことがあり、今回それを検証してみた。
ただ、番組自体は最初から見ようと思っていたものではなく、録画も行って
いない。
この点、記憶違いがあるかもしれないので、あらかじめことわっておく。
また、この番組の元となった、鹿島圭介氏の著作もチェックしてみようと思い、
文庫本が出ていたためそれを求めた。
事件については、多数の著作や報道、個人見解などがあるが、今回の検証は、
TV番組で紹介された事項、そしてこの元本の内容に限る。

[疑問点]
まず、犯行に使われた銃は警察 科捜研の検討によると米コルト社のパイソン
8インチバレル(銃身)付きで、目撃者の証言もこの大きさを伺わせるものだ。

py8/10
画像右がパイソン8インチ、左は日本の警察でも使用されることのある
S&WのM26チーフスペシャル(2つともタナカ ガスガン)。


また、犯行に使用された弾丸は38口径のフェデラル社製ナイクラッド弾で、
損傷程度から38スペシャルをオーバーロード(火薬量を増す)したものか、
.357マグナム(.38スペシャルと弾頭径は同じ)とみられている。

py8/11
.357マグナムと.38スペシャルのダミーカートリッジ。
両者はケースの長さが数mm長い(.357マグナム)以外基本的に共通サイズだ。


気になったのは、当事者しか知らない”秘密の暴露3 拳銃の加工”として
『(犯行に使ったコルト社のリボルバ=回転式けん銃)パイソン用に自分で
製作した「着脱式の銃床」』【()内は当ブログ主の注釈、参考資料② P208】
を使った、としている点だ。
形態は『小型の松葉杖のような形状』【参考資料② P208】で、取り付ける
ために『銃把(=グリップ)の左右両盤(両方?)の上端をカットして、3つの
ボルトを埋め込み、そこに銃床の先端が着脱できるようにしました』
【参考資料② P208】とある。

py8/03
自作でこのストックを再現したもの。

更に放送では、この銃床の図が示され、等間隔に3つの穴が銃床先端に
開けられ、これが銃本体の機関部側面に開けた穴にはまるボルトによって
固定されるようである。
図は一面しか写されなかったと思うが、資料②によると、左右両方の銃把を
カットしているので、上から見てU字状になっている
(板を3枚重ねた)形状だと思われる。

[検証1 負荷荷重]
ボルトの径については記述がなく不明だが、目的が.357マグナムの反動を
受け止めるストックの固定なので、曲げモーメントによるせん断荷重に耐える
だけの強度が必要だと思われる。

.357マグナムのエネルギーは、弾のメーカー,種類によって差があるが900J
(ジュール)ほど、初速は400m/sec2くらいが平均だとすると、バレル(銃身)を
通過する時間は0.001sec、エネルギーがこの間に伝達されると考えると
900÷0.001=900000N(ニュートン)になる。

これを3本のボルトだけで支えるとすると、非常に大きなものが必要となる。
せん断方向の許容荷重を570N/平方mm(F10T)とすると、
900000÷3÷570=526平方mm

円柱のボルトと考えると、
√(526÷3.14)×2=26mm(直径)
これは曲げモーメントを考慮していないので、実際はもっと大きなものが
必要になる。

但し銃の動きはこれより遅く、またストック側の固定は人間の体に
よっており、こちらははるかに遅い速度で”逃げる”(反動で後退)ので、
一桁伝達時間が大きくなれば、直径8mm程度になる。

拳銃に着脱式ストックを付けるのは19世紀のパーカッションリボルバー
でも流行し、自動装てん式の初期では、ボーチャード、モーゼルミリタリー、
ルガーP08など、各社がこぞって開発を行った。
これらをみていけばわかると思うが、全てグリップフレームの後部を
ストックの前部と接触させ、大きな面積で荷重を受け止めている。

ボルトの、しかも引っ張り,圧縮に比べ弱いせん断方向の負担だけで
もたせるような構造は、設計としては”上手くない”。

少し形は違うが、MONARCHのRITLE-ETTEショルダーストックというものがあり、
これはM1911でグリップ部にストックを付けたものだ。
弾薬は45ACPで.357マグナムの比ではないが、それでも大きなネジを使い、
広いピッチでグリップに付けている。
M1911のグリップ自体は4mmほどの小さなネジで止まっているが、これは
グリップの荷重を受けるのではなく、そのベースとなるもう一段太いナットを
フレームに埋め込んでそれが荷重をグリップに伝えている。

今回、フレームに3本納まる形で検討し、M6(外形6mm)のネジを使っているが、
上記の検討だととても”持たない”。

また、ストックの素材にアルミを使ったともあり、合金で高い強度を持つものを
使ったとしても、この大きな荷重を受け止める(ボルトとの接触部で、こちらは
圧縮荷重)には、相当の面積が必要だ。
下の画像では3mm厚2枚で銃本体のフレームを挟むように配置しているが、
これではボルトの許容せん断荷重以下で、ここから曲がり、折れ(座屈)が
発生すると思われる。

[検証2 ボルトの位置]
次にボルトの位置だが、グリップを切ってもボルトを植え込む場所はないのだ。
『3つのボルトを埋め込み』【参考資料② P208】という記述だが、そのまま解釈
するとグリップを切った部分にボルトが入ることになる。
これをトイガンではあるが再現、検証してみよう。

グリップの切断は避け、取り外した状態で装着の検討を行ったのが下の画像だ。
一番後ろのボルトは空間があり、そこに配置できるが、前の2つは機関部を
貫通することになる。
Fig2に示す通り、機関部内にはトリガー(引き金),ハンマー(撃鉄)シア,
リバウンドバー、ボルト、シリンダーハンドなどが入っており、ここにボルトを
入れることは不可能(やったら銃の機能が失われる)だ。

py8/04

これはタナカのガスガンで見ているが、下のコクサイ製モデルガンと比べても、
この機構部分は大差ないことがわかると思う。更に、これらの機構に付いては、
月刊Gun誌の本物vsモデルガンなどでも比較されており、後述のフレーム厚さ
などは実物グリップが装着可能であることなどから再現度の高さがわかる。
”実物なら可能”とはいえないはずだ。

py8/09

TVで放映された図とは異なるが、グリップを半分切断し、トリガー後方に3つの
ボルトを並べる形なら配置は可能だ。
しかし、そうなるとこのストック保持(固定)は、3つのボルトの締め付けによる
摩擦力のみ(グリップの残りが当たっていても、大きな力には耐えられないと
思われる)で、上記のようにこのボルトの許容せん断荷重でも危ないものを
もたせることは出来ず、更に今度は銃を握るのに不具合を生じる。

より現実的な方法は、左右両側にストック先端をもってくるのを止め、どちらか
の”片持ち”とすることだ。
左側は装填,排莢に難を生じること、サイドプレート(上の画像 Fig3参照)
という、ネジ2本でフレームに止まっているパーツに付けるのは強度上また
無理があるので、右側がまだマシだ。

py8/05

しかし、こちら側のフレーム厚さは、厚いところで5mmほど、中央~前部では
ポジティブロック(上の画像 Fig4参照)という安全装置を納めるための
切り欠きがあるため3mm弱しかない。部品と干渉せず、かつネジ穴の面取り
など不完全部分を考慮すると、M6では2山ほどしかかからず、通常呼び軽の
1.5~2倍が必要とされる厚みには、到底及ばない。

ボルトを”植える”のは諦め、フレーム右側表面に溶接でボルトを付けることを
検討してみた。

py8/06

画像は(トイガンの素材が樹脂なので)実際に溶接したのではなく、熱可塑性
樹脂で溶接の様子を再現したものだ。
この方法は一見可能に見えるが、溶接は母材(この場合フレーム)も溶かす
ので、その肉厚が3mm無いこの場所ではフレームに穴が開き、また内側が
変形する恐れがある。どうしてもここにボルトを植えたいなら、タップを切った
補強用の大きなプレートを肉厚のある部分で溶接し、そこにねじ込む方法だが、
それはもはや『3つのボルトを埋め込み』とはいえない。「ストック取り付け
プレートを溶接し」が適切な表現になるはずだ。

そして、検証1で述べた通り、各国で開発されたストックと同じように、
グリップフレームに付ければハナからこのような無理はないのだ。

もしNが本当にストック取り付けを検討しグリップ,サイドプレートを外したなら、
一目で方法の変更を選択した、と思うのだが。

個人的にストック自作した例が下の画像のものだ。

py8/07
パイソン8インチにスコープ、非固定式のストックを組み合わせたもの。

グリップ後方にストックを当てれば、荷重負荷は問題ないはずで、グリップ下を
切ってフレームにネジ止めも可能だが、このまま手で保持しても問題ないうえ、
後に記述する逃走時の分解の手間もかからない。
ストックを固定しなくても良いのか、と思う向きもあると思うが、以前セイフティ
スラッグを開発したキャノン元大佐が手首に取り付けるストックを開発していた
ように、反動を肩で受ける(そして銃の保持性を高める)目的には有用だと思う。

この画像では更に照準の問題に対処するためにスコープも付けており、
このほうがNの証言した狙撃用カスタムより、よっぽど実践的で加工も簡単
だと思う。

余談だが、科捜研ではパイソン,トルーパー、キングコブラの比較検討を
行ったそうだが、.38スペシャルの銃はハナから除外し(.38スペシャルで
ハンドロードした可能性もあり、今だにネットでは米国でナイクラッド弾頭を
入手しローディングデータを探しているという記載が見つかる)、またコルトの
.357マグナムでもニューフロンティアなどは検討されていないようだ。

ニューフロンティアなら、上記のパーカッション期のストックも容易に転用
できる(画像はHWS製のレプリカストック)。

py8/08
ハドソン モデルガンのニューフロンティア7.5インチにHWS製ストックを装着したもの。
このニューフロンティアは.45口径だが、.357マグナムも実物では存在する。


更に以前CMCからモデルガン用としてスケルトンストックも販売されて
おり、これも流用可能だと思われる。

ニューフロンティアのグルーブダイア(銃腔内径のうち、ライフリングの溝
部分の径)だが、検索すると.354~.356との記事が海外HPで見つかる
(科捜研が使用された拳銃をパイソンだと推定したのは、グルーブダイア
がトルーパー,キングコブラより小さいためだという 
【参考資料➁ P240~242】)。
再装填を前提とせず、精度を高めるためシングルアクションで狙うなら、
この銃も十分使用可能なはずだ。

[検証3 ストックの着脱]
ストック取り付け方法の矛盾はそれくらいにして、もし取り付けが可能
だったとして、証言のように、狙撃後、ストックを分解してから自転車に
乗り逃走、が可能だっただろうか。

証言には工具を使って分解した、という記述が無く、また現場でそのような
手間のかかることはしなかったと解するのが普通なので、手で締め、
たは外すことのできるノブが使われたと仮定しよう。

さんざん上で取り付けの難を述べたボルトだが、フレーム寸法に納まる
寸法で、手持ちの手締めボルトが付くギリギリのサイズが20mmピッチで、
これで上の検討も行っている。
逆に、これ以上ピッチを広げることは困難だ。

ネジは一応3山以上かかっている、と仮定してこの状態のものを回して
みたところ、4~5秒かかり、そのネジ(ナット)をどこかポケットにでも
しまうのに数秒、ストックを抜いて銃本体とストックをショヅダーバックに
しまうには更に数秒かかる。
強度を得られるようにボルトがもっと深く本体に入っていれば、更に
時間がかかることは言うまでもない。

狙撃位置から被害者,付き添いの者までは20mほど、警護の者は例え
50m離れていて、狙撃終了後被害者のところに未だ到達していないとしても、
狙撃後自転車を走らせるまでに10秒近くかかると”犯人は追手に捕まって
しまう”。
またこのような、緊迫した場面で3本のボルトを外すような”もたついた動作”
は当然目撃者にも強い印象を与えるはずだが、そのような目撃談は
一切ない。

[検証4 照準の問題]
パイソン8インチにはバリエーションがあり、ハンター,テンポインティア,
ターゲットなどが知られている。

py8/12
タナカ パイソン用のバレル各種。
本体に付いているものはパイソン刻印、中央はテンポインティア、舌はパイソンハンター。
実物でも本体の違いは刻印のみで、スコープなどの装備品が異なる。


このうちターゲットは.38スペシャル実包専用だが、他の2つはスコープを
標準装備したモデルである。
また上の画像では、自作スコープマウントでパイソンにスコープを付けて
いるが、このような形のマウントも市販されていた。

パイソンのサイトは、両手、もしくは片手で保持して狙うことを前提として
おり、また戦後の拳銃では一般的な、コンバットシューティング等で最適と
された大きなフロントサイトに凹型のリアサイトを合わせる、という形式
のものだ。
これをストック装着で頭がリアサイトに近づいた状態で見ると、凹部は
大きくぼやけてしまう(照準は、フロントサイトに目の焦点を合わせるのが
普通で、逆にリアサイトに焦点を持ってくると、目標は大きくぼやける)。
特に老人だと老眼傾向から近くのものにはピントが合いにくいはずだ。
精密射撃では、フロントサイトとリアサイトの隙間は少ないものが良い
(すきまが大きいと、その隙間の左右の大きさを比較しにくく、精度が
悪くなる)とされており、この状態ではピントが合う合わないだけでなく、
照準誤差が増大する。

スコープでもアイリリーフ(目とスコープの距離)の差があり、ピストル用は
アイリリーフが遠目に設定されているが、適切に設定されたものを使えば、
ストック装着状態でぼけることなく狙えるようになる。
そして、精密射撃において、サイティングがその精度に大きな影響を及ぼす
ことは既に広く知られており、光学照準器使用は競技でも別クラスとして
分けられていたりする。
APS競技拳銃の10m射撃でも、アイアンサイト(凹凸の照準器)では
30~40mm、スコープ装着では20mm台、という結果を個人的にも得ている。

また、仏の対テロ特殊部隊GIGNでは、マニューリンM73リボルバーにスコープ、
バイポッド(二脚)を付けたものを使用していた。
米国では法規制のせいもあるが、同様にスコープ付き、バイポッド付き拳銃の
例が多く見られる。

20m(当初想定では30m)の拳銃では遠距離の射撃で、この不適切な
リアサイトでは難しいことは試射すればすぐにわかるはずで、逆に拳銃競技
などで練習を行ったことがあるものならば、サイトの問題にすぐ気が付くはず
なのだが。

ストック取り付けを前提とした自動装てん式の拳銃は、小さめのサイトで、
前がピラミッド型、後ろはV型になっており、リアサイトが(相対的に)大きく
見えても、谷間にフロントサイトの頂点部を合わせれば左右が合うように
なっている。

py8/13
P08(ネイビーモデル)とパイソンのリアサイトの比較。
下段はアイリリーフが短い状態でフロントサイトとあわせて照準の状態を示したもの。
大きく隙間が空き、ぼやけたパイソンのリアサイトでは、精密な照準は難しい。


戦後のモデルではH&KのVP70はフロントサイトを幅広にし、ストック未装着
状態ではフロントサイトに設けた抉りの部分を使って照準する、という
変則的な方法で対処している。
H&Kはその後MP7などでは前後サイトを切り替えて別のものを使う、といった
方法に進化しているが、ともかくストック装着(使用)には、こういった配慮が
行われないと、精密な射撃はできないと思う。

[秘密の暴露]
また、パイソンの密輸に関しても、『パイソンもそうですが、銃器類はばらばらに
分解して、(中略)電気機器の中に隠して、日本に密輸していました。』
【参考資料② P272】というNの証言がある。

パイソンを小さくするには、バレルとフレームを分解する必要がある。
逆にここが一体のままなら、他をいくら分解しても全長は同じだ。
コルトのリボルバー(回転式拳銃)はバレル、フレームに切ったねじで両者を
結合するが、強力な反動でも緩まないように強固に締め付けられており、
両者を傷めないように分解するには専用治具,装置を要する。

一般的なねじ回し、ペンチなどの工具では、不可能なだけでなく、照準が
狂う恐れ、緩みが出てくる恐れもある。

ダン・ウエッソン社の製品のように、簡単に分解できるよう設計され、専用
工具が付属しているものを除けば、バレルの着脱はガンスミス(銃工)の
仕事だ。
Nはこれを国内で誰に依頼したのか。あるいは自分でやったとして、
どのような工具、方法をを用いたのか。

以上みてきたように、この拳銃の加工証言は、信用するに値しないと思う。
そうすると、Nの証言は大きく揺らぐことになる。

他の秘密の暴露については、もともとNが狙撃を可能にしたのが”警察内部
へ侵入しての情報入手”だったため、これを受け入れるなら、その進入時期
を”事件後”にずらせば、警察内部で入手可能だからだ。

逆に”犯人しか知り得ない秘密”は、この拳銃の加工だけ、そして共犯者の
特定も、時効後でも出来ていない。

弾は生産時期から約5年間のものに特定されていても、正に犯行に使ったもの
を入手したとはいえず、またNが持っていた弾の回収、鑑定も不可能だった。

ストック付きハンドガンは米国でも許可が必要だが、自分が示した
”非固定式”なら問題は無いと思われる(でなければ板切れを規制すること
になる)ので、もし海外でパイソン8インチを自由に撃てる環境がある方が
これを見られたなら、ひとつ検証していただきたいと思う。

また、放送ではNの犯行とするには矛盾点となる、もう一人の容疑者の
コートの鑑定結果、現場に落ちていたバッジのDNA鑑定結果、
現場の発射痕跡から割り出された犯人の身長よりNが10cm低いことを
無視しており、鹿島氏の著述でもこれら証拠に付いては信用性を疑い、
身長差に至っては「矛盾しない」としており(高い身長の者が低い位置で
射撃することは可能だが、低い者が高く構えると照準できない)、昨今の
朝日新聞の謝罪騒ぎではないが、もともと結論ありきの検討で、更に
都合の悪いものはカットするという、公平さの点でも問題があった
のではないかと思う。

実は米国での取材でも、パイソンバレルを使ったスマイソンが登場しており、
正にパイソンだけがパイソンバレルを使っているものではない(メーカー製
でもボア、後になるがグリズリーなどがある)のを証明している、と
思うのだが。

但し鹿島氏の著作については、捜査一課と公安の対立、など警察内部の
軋轢、刑務所にいる容疑者の供述を追う姿など、”読み物”としては非常に
よく出来た作品で、一気に読んでしまった。
もし興味を持たれたなら、是非一読をお勧めしておく。

参考資料;
①8/31 TV朝日「世紀の瞬間 未解決事件」
②新潮文庫 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男」

py8/02

それでは今回はここらへんで。

スポンサーサイト
web拍手 by FC2
今回は少し趣向を変え、今年話題となった映画、漫画の規制についてを。

eiga/01

まず記事のスタイルについてだが、発言や著作文の引用部分を「」で、
漫画,映画及び単行本名などは『』で表し、特に話題として記述するもの
を除き出版,制作元の記載は省略させていただくことをご了承願いたい。

そしていつものようにドールに銃を持たせた画像を使っているが、これは
表現の自由を制限しようという動きに対する抗議のつもりである。

もし他のキーワードなどで検索されてここを見て、嫌悪感を覚えた方には
申し訳ないが、せっかく覗いて下さったのでもあるし、どうか一度記事を
読み、そして考えていただければ、と思う。

今回は端から端まで個人の考えを述べさせてもらっている。
私は、以下述べるような”度を越した”表現規制に反対である。
それは効果が望めないこと、子供の刺激に対する耐性を下げ、判断力を
スポイルすること、そして表現者の権利を侵害するから、である。

『風立ちぬ』について
この夏公開された宮崎駿氏の映画『風たちぬ』で喫煙シーンが多かった、
としてNPO法人である日本禁煙学会が要望(内容では苦言としている)を
行った。
この主張によると、『風たちぬ』はWHOで採択,発効した『タバコ規制
枠組み条約』に違反し、煙草の宣伝にあたる、という。

これに対し、喫煙文化研究会が「当時の状況を再現するにあたっては
極めて一般的な描写」とし、表現の自由に対する侵害にあたる日本禁煙
学会の要望は「意味をなさない」と主張した。

『風立ちぬ』の制作側はこの件に関してコメントしていないようだが、
映画の公開は年齢規制なども無く続行され、既に多くの観客が観ている。

煙草メーカーの広告については、直接コマーシャルを流すことはもちろん、
モータースポーツの世界から排除されるなど、規制は既に広がっている。
しかし映画や漫画などの喫煙シーン規制が必要で、また世界的に
認められているか、については疑問がある。

喫煙の害、については既に有意とされ、受動喫煙の危険性も指摘されて
いる。
私は喫煙習慣が無く、愛煙派を擁護するつもりもないのだが、他人に迷惑
をかけない(嫌悪感情までは保護すべきとは思わない)範囲でなら、成人
が喫煙することは法が許している、守られるべき権利、ではないかと思う。

これは以前ナイフ規制の時に述べたが、公共の福祉に反する、つまり他人
に迷惑をかけない範囲でなら、趣味嗜好は個人の自由であり、尊重される
べきだと思うからだ。

宮崎駿氏の作品では『紅の豚』で主人公が愛煙家として描かれ、他でも
既に喫煙シーンは多く描かれており、いまさら『風立ちぬ』だけを何故
問題視するのか、非常に疑問に思う。

そもそも、子供が喫煙の様子を見て真似る、というなら、屋外での喫煙は
もちろん、ガラス貼りの喫煙ルームも禁止しなければならないはずだ。

喫煙シーンの排除要求は、映像に強い印象を与える効果があるため、と
しているようだが、果たして身近で頻繁に”リアルな”喫煙行動を見る
よりも影響が大きいだろうか。

また、水銀やアヘンの摂取,吸引についての表現があったとして、我々は
それを全く考えることなく、猿真似して習慣化するだろうか。

放射能を浴びて巨大化し、炎を吹くゴジラの姿を見て、放射能を浴びよう
と思うだろうか。

言わせてもらえば、現在の非喫煙者の多くは、周囲の喫煙を見て育ち、
また自ら喫煙していたのを止めた方も少なくないはずである。

環境の要因に反し、現在多くの人が禁煙(はじめから喫煙しない、も
含めて)を選んでいるのである。

これからの世代が、喫煙の害を訴える声を聞かず、映画を見ただけで喫煙
を始めるだろうか。

『はだしのゲン』について
松江市教育員会は、市の小中学校に対し中沢啓治氏の漫画『はだしのゲン』
を自由に閲覧できない閉架措置を求め、多くの学校がこれに応じたという。

これが全国ニュースで報じられたあと、反対する声が多く寄せられ、
日本図書館協会が再考を求める要望書を送るなどしたため、市教委は再
協議を行い、閉架措置要望を取り消している。

ことの発端は、市民が市議会で『はだしのゲン』は歴史認識に問題がある
ため撤去するように、と求めたためだという。

市議会はこの要望を不採択としたが、市教委がこの機会に本作を読み返した
ところ、子供に見せるには”暴力表現が過激”(複数の新聞による表現)で
あるとして、閉架処置を求めることにしたという。

朝日新聞によると、「市教委によると、描写が残虐と判断したのは、旧
日本軍人がアジアの人々の首を切り落としたり、銃剣術の的にしたりする
場面」としている。

まずこの記事の信ぴょう性だが、なぜ旧日本軍の行為のみが”残虐”
なのだろうか。

この漫画は、米軍による広島への原爆投下がメインテーマである。つまり
原爆攻撃の残虐さ、非人道さが全編にわたって描かれており、その凄惨な
被害の様は、正に地獄絵図である。

市教委は、何故この残虐性を”見過ごし”、対する日本軍が他のアジアで
行った行為の残虐性のみを問題にしたのか。

ひとつに、この判断は”思想的背景”があることが考えられる。
次に、報道が”偏向”している可能性も考えられると思う。

問題とされるシーンをニュースで見て驚いたのは、それらは朝日新聞が
行った自虐,中国追従の虚報記事とそれをまとめた『中国の旅』や
著者である本多勝一氏の一連の著作を思い出す内容だったことだ。

この問題については、既に多くの記事,著作があるのでここでは深く
追求しないが、単なる誤報,一方的な主張の掲載ではなく、違う写真を
使って読者を欺こうとするなど作為があり(あくまで私の主観だが)、
”思想的背景”に基づく洗脳、だったといってもいいと思う。

朝日のこのキャンペーンは一時多くの文化人,教養人が”騙され”、今も
日中の関係に少なからぬ問題を残していると思う。

『はだしのゲン』も、この虚報を鵜呑みにし、宣伝に加わった作品
である。

ここで浮かんできたのは、市教委がこの描写の間違いについて認識し、
教育機関で置く図書としては不適切、と判断した可能性だ。

そして、”当時の犯人”である朝日新聞や、一緒になって誤った歴史認識
で”言論攻撃”を行ったマスコミが、羹に懲りてこの”誤り”について
言及を避け、原因を”描写が残虐”へとすり替えたのではないか、という
疑念が浮かぶ。

ちなみに今回の騒動が元で『はだしのゲン』は通常の3倍の販売量になり、
撤去を求めた側(こちらも思想的背景があったようだが)の意図は失敗
どころか、大きな逆効果を生んでいる。

『少年H』について
朝日新聞,朝日放送は今年夏(他の協賛企業と共に、だが)妹尾河童氏の
『少年H』を映画化、公開した。

映画については現在も朝日放送がTV番組中やCMでキャンペーンを展開し、
『風立ちぬ』の首位には遠く及ばないものの、公開当初7位(興行通信社
調べ)を記録したという。

朝日は『風立ちぬ』と思想的、営業的に相いれず対抗馬を立てたかった
(日本テレビが制作に関わっている)、憲法改正が囁かれるいま、
”平和を訴える”作品でアピールする必要を考えた、など憶測することも
できるが、しかし、なぜ『少年H』を取り上げようと思ったのか理解に
苦しむ。

この作品については、児童文学賞の選考委員であった山中恒氏が候補と
なった本作を読んだところ、”自伝的”というには程遠い内容に驚愕し
上梓した『間違いだらけの少年H』が詳しいが、事実の時系列、情報が
一般に知り得たか、など多くの誤り,疑問点があり、この指摘を受けて
妹尾河童氏自身も文庫化にあたり多くの修正を行ったという。

しかし、作品の根幹に関わる部分にも誤りはあり、更に追求すれば
そもそもこの話は成立しない(これも私個人の見解だ)。

もちろん、これがSFであり、戦後の情報を知っている少年がタイム
スリップした戦時中の世界で苦しむ、という内容なら問題はない。

今回の映画化にあたって、原作を”自伝的小説”(小説は虚構の話)
とわざわざ注釈を付けているが、話の不都合な部分には目をつぶり、
”大きな声で訴えれば多くの賛同を得られる”式のキャンペーンには
目を覆いたくなる。

上映前後に”フィクション”だという説明がされているのだろうか。

もし、”実話に基づいた”といっているなら、”オレだよオレ”とは
言ったが間違えたのは向こうだ、というような詐術の類となんら
変わらない”誘導”なのではないかと思う。

この作品に感動があれば、それはフィクションであるか否かに関係無く、
文芸作品として評価されるべきであるし、観客が騙されていないなら、
これも表現の自由であり、公開自体に苦言を呈するつもりはない。

また、『少年H』に問題があるとしても、妹尾河童氏の舞台美術の評価、
『河童が覗いたトイレまんだら』など他の著作の評価には関係がなく、
細かいところまで描いた俯瞰図とエッセイの妙は素晴らしい。

しかし、この話がウソである以上、この映画で太平洋戦争に導いた者、
従った者の愚を論じるべきではないと思う。

その観点でいえば、このようなキャンペーンは戦争の是非や平和を真剣
に考える者の足を引っ張っていると思う。

そもそも、戦時中、特高による拷問を伴う”指導”や、軍人会などの圧力
があったとはいえ、情報操作どころか軍国主義礼賛のキャンペーンを張り、
お先棒を担いだ”張本人”が、今度は反戦の為に”ウソも方便”と都合の
良い話を作る、というのは、「真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的
精神を持してその中正を期す」という看板とは相容れない姿勢が相も
変わらず続いているのでは、と思う。

教育に過剰な情報規制は有用か
これらの動きは、表現を規制しようとする側、表現を行う側双方が、
自らの思想信条の浸透,他の思想信条の排除の目的を持っており、
それを表向きは”教育”としている(信じる者にとっては、洗脳,偏向
でなく教育なのだ)、せざるを得ない(でないと一方的な思想の押し付け
を認めることになる)ところが、余計に本質をわかりにくくしている
のかも知れない
(科学的根拠に拠らない行き過ぎた”嫌煙”などは、もう思想を超えて
”宗教”の域にあると思う)。

しかし、”有害なもの”を遠ざけ、全く排除した環境で育てば、その者が
期待した通りの”素直で品行方正、聡明な若者”が育つだろうか。

”有害なもの”に毒されるのは、若者が誘惑に弱く、耽美で怠惰に流され
やすいから、ではなく、自らが信じる思想が”信じるに値しない”偏った
考えに過ぎないから、とも考えられないだろうか。

そしてそれを認めるのが怖いから、他を攻撃,排除しようと躍起になる
のではないのか。

むしろ、現実と虚構の判断が出来る年齢なら、このような失敗の疑似体験
(漫画,映画を観ること)を踏まえ、自らの頭で考える訓練が、正しい
道へと導く有効な手段ではないだろうか。

情報を完全に遮断、制御出来ない以上、有害なもの、間違いを見極める
判断力を養うことが重要ではないだろうか。

『はだしのゲン』の撤去より、『ゴーマニズム宣言』や『中国の旅』、
上記の『少年H』と『間違いだらけの少年H』も置き、子供に自由に読ませ、
そして何が間違いか、一緒に考えるべきではないか。

そして単に判断する技術を習得させるべき、というに止まらず、むしろ
判断力の育成が教育の本質的目的(これだけではない、とは思うが)
ではないか、とも思う。

判断力
『はだしのゲン』の作者中沢啓治氏は、この作品で書く事について
悩んだが、子供たちは真実を見抜く力を持っていると信じて書いた旨の
コメントを漫画の表紙カバー裏に残している。

私は”大人の”中沢啓治氏が旧日本軍の暴行については誤った判断を
した、と思うが、これは大人の目が曇ったから、ではないし、詳しく
は後述するが”見抜く力”は生得的なものではなく、後天的なもの、
しかも常に磨かなければ維持,発展しないものではないかと思う。

教育評論家の尾木直樹氏は、『はだしのゲン』閲覧制限問題に対し、
「メディアリテラシーをどういう風に身につけさせるかに本腰を入れて
いない」とコメント(日本テレビ)された。

リテラシーとはレターから派生した言葉で、読み書きの能力だが、近年
発信者が隠そうとしている意図や目的まで批判的に見抜く能力といった
高い次元の判断力を指すようになってきているという。

メディアリテラシーについては、上記の尾木直樹氏や池上彰氏、
菅谷明子氏の著作があるが、問題はこの”媒体を読み解く”という制限
を超えて、広く”判断力”が問われていると思う。

また、エマニエル・カントは古典『判断力批判』で美的判断力から
目的論的判断力へと論を進めているが、奇しくも各論から判断力の
総合的評価を論じている。

考えるに判断力には情報(知識,経験)の蓄積と整理にかかる記憶力、
思考力,注意力及び洞察力を統合した解析力の双方が必要で、いわゆる
直感による判断でも、パターン化や判断基準点の絞込みで、思考という
プロセスをショートカットしているに過ぎないのではないかと思う。

子供の”純粋な”判断は、情報が少ないため、その整理や選択において
誤りが少なく、また”教えたこと”以外が無いので指導側の”思った
通り”の回答が帰ってきやすいため、かもしれない。

また子供は少ない知識に重きをおくことが出来ず、その少ない知識をフル
活用して思考を中心に結論を組み立てるため、非常に論理的な結論に
至る、という側面もあると思う。

個人的な話だが、幼い時に「10円が10枚で何円になる?」と聞かれて
私はしばらく考えたあと、「とうじゅうえん」と答えたという。

聞いた方は、逆に喜んで「それも間違いではない」と仰ったそうだが、
「一、十、百、千」という呼び方を知らなければ、「ひとつ、ふたつ
~」と数を数え、「とう」を十円につなぎ合わせる、という答えに
行き着いたのではないかと思う。

知識,経験が蓄積されれば、判断の基準や方法としてこちらの比重が
高くなると思うが、考えることを怠けるため、早い判断をするため、
知識,経験を頼むようになると、イレギュラーな事態で失敗することに
なる。

判断力は常に磨くべきもので、注意力が下がれば見直すべき重大な問題
を見逃してしまう。

事象にもよるが、経験を積んだ大人の判断は確率的に正しいことが多く、
経験による精度向上の効果は確かにあると思うが、それまでのセオリー
は時として通用しなくなり、往年の名選手,経営者が時として大きな
失敗を喫するのも、実は慢心,注意力の低下が原因、ではないかと思う。

群馬県立女子大学(体育)神山研究室が『適切な判断力』というテーマ
で解説をHPに掲載している。
ここでは体育の立場からアプローチし、疑似体験+理屈を基本構造と
しているが、知識+解析力を別の視点で捉えもの、と解してみると非常に
私見と近い。

私は自分が決して判断力に優れているとは思わない。
しかしそれゆえに、これからも判断力を磨いていきたい、とは
思っている。

そしてこれから教育に当たっている方々が判断力の育成を念頭に
おき、子供たちが知識を蓄え、思考を深めていくなら、視力,聴力が
衰え、残りの時間が少ない私などよりも高い判断力を身につけて
玉石混交かつ膨大な量の情報を流し続ける現代社会から、豊かな実りを
得てくれるに違いないと思う。

最後になったが、画像の盗用はもちろん、LINKも許諾等の問題が
あった為、敢えて設定していない。
各文献、映画はワード検索などで調べ、直接実物を見て(読んで)
頂きたい。

eiga/02

次回は通常の形に戻し、サコーのM60機関銃を、と思っている。

長い話にお付き合い頂き感謝。
では今回はここらへんで。

web拍手 by FC2
今回は、秋葉原の事件と、ナイフの規制について考えたい。
OP/05


まず、この事件で犠牲となられた方に謹んで哀悼の意を表し、被害に遭われた方にお見舞い申し上げたい。
少し話はそれるが、一般的に良く用いられる、一日も早い回復を、という慣用句に今回は違和感があり、敢えてお見舞いとさせていただいた。
打撲に創傷、しかも重度の方もいらっしゃったようなので、容易に全快することを予想したような言い方を軽々に用いたくない。
個人的には指の縫合治療の経験があり、これでも最終的には後遺症状固定、で終わってしまった。
今回の被害者の方々は、更に心的外傷も考えられ、その苦しみはいかばかりか、察するに余りある。
心よりお見舞い申し上げ、もちろん少しでも症状が良くなることを願って止まず、そして皆様が全快される日がくれば、これほど嬉しいことは無い。

また、今回も記事の前後にナイフと人形の写真をつけているが、これはこのブログのスタイル、テーマの絵的表現で、間口を広げる意図で始めたものであり、もちろんこの問題をふざけた気分で茶化そうというつもりはなく、もし気分を害された方がいたら先にお詫びする。

さて、刃物製造団体がダガーナイフの生産を自主的に中止、規制を求めるという記事もあったので、既に銃刀法の改正は規定路線になりつつあり、負け犬の遠吠えかもしれないが、ユーザーの立場からも意見をいわせていただく。

[犯行とその罪について]
この犯行自体については、厳しく糾弾すべき行為だと思う。
これは広く一般に恐怖を与える事を狙った、という点ではテロである。
いかなる理由があっても、断じて許される行為ではない。
これは卑劣極まりない、汚い手段で、何の落ち度も無い方々を、ほぼ無防備の状態から一方的に攻撃したものだ。
ただ、犯行に至る犯人の心理や、犯人を取り巻く周囲にも何らかの悪意(法律用語ではなく、一般的な、犯人への加害を目的とした意思)が無かったか、派遣雇用,失職の不安など社会の問題、心の拠りどころとなるべき家族関係の形成の問題等、これから調べ,考えるべきものも多いと思う。
今、一般の立場にある者が犯人自体,またはこの罪を断じるのは、早計ではないかと思う。
罪については、今後行われる裁判の場で、公正に裁かれることを望むのが法治主義の観点から重要だと思う。
魔女狩り裁判になっても、アンチヒーロー化が進み、第三の模倣犯を呼ぶ恐れもある。
また、この事件は、裁判員制度の対象になる可能性も考えられるのではないかと思うが、その際には、どうかより一層深く、事件について,罪について議論,考察いただき、間違っても裁判員制度を「一段高い傍聴席」に終わらせないよう努めて頂きたいと思う。
裁判員に選ばれた方には、民意の確かさ,正しさを示し、そして有用性を知らしめて裁判の民主化を押し進める原動力となっていただきたい。
(*今回のケースでは、その施行前に起訴され、従来の裁判で裁かれるようです。追加訂正します。)

[モノについて]
犯罪は、それを行った人間に問題,原因があるのであって、物のせいではなく、また物のせいにしてはいけない、という主張もあり、基本的には賛成である。
そして、ナイフの規制強化で事件の防止は図れないと思う。
但し、現在この理解が得られにくい状況も理解しているつもりである。
しかし、敢えて主張させてもらうのは、サバイバルゲーム,テレビゲームが根本の問題であると思わせるような間違った情報、凶器についての誤った知識については、おこがましい言い方かもしれないが、それに気づいている我々が意見を発し、訂正していかなければならないことだと思う。
そんなことはどうでもいい、といわれるかも知れないが、過去にも似たような犯罪は起こっており、判断の誤りが、このような犯罪が繰り返される一因ではないかと思うのだ。

できるだけ被害者の方の感情を刺激しないように配慮させていただくつもりなのだが、誤りについては声をあげ、また有害でないと思われるものは続ける、という方法を今も模索している。
もちろん、その判断につき、それぞれご意見はあると思う。
だが、ルールを守っていれば、それ以上「空気を読め」などというような、過度の自主規制につながるようなことを認めたくないし、基本的に言論の自由は保証されるべきだと思う。
そして、それぞれが、現在では(このように)それぞれが得ることの出来る発表の場で、意見を表明すればいいと思う。

このブログでは過去にいくつもナイフを取り上げている。しかし、これらはナイフの悪用については警鐘を鳴らし、また手前味噌ながらサバイバルナイフ,タクティカルナイフがどういうものか、といった疑問について考えるという趣旨でも記事を書いている。
このような知識,考察の普及は、犯行を誘発しエスカレートさせるものではないと思う。
今回ダガーナイフがセンセーショナルに取り上げられ、これが過度に恐怖心を煽る報道の一翼を担ったと思う。
そのような“演出”に警鐘を鳴らす意味でも、決して有害無益なものではないと思う。
また、今回の報道でも問題のあった、何をサイバイバルナイフというのか、など定義の考察とその一般化は、必要なことではないだろうか。
よって過去の記事を削除したり、一時的に閲覧禁止にはしていない。
また、一部の書き込みに見られた、犯人が心理的効果を狙ってナイフを選んだ、という主張が正しいのなら、尚の事ダガーナイフを“凶悪無比な道具”や“未知のツール”にしてはいけないと思う。
未知こそ恐怖のもとではないだろうか。

[テレビ報道について]
テレビ報道が、作為をもって事件の演出を計り、意図的に恐怖心を煽ることによって視聴率の向上を狙ったとは考えたくない。
また視聴者が皆、結局は対岸の火事であり、現実性を持って見ておらず、このためよりスリリングなものを要求し、この報道にフィクションより面白い演出を求めたとも思わない。
しかし犯人の目的が広く大衆に恐怖を与えることであり、またワイドショー独占といったことを自虐的に語っていたようなので、マスコミにはその目的完遂に手を貸したこと、虚構のモンスターを作り上げようとしていることには反省していただきたいと思う。

その一方で軽視されている面がある。
今回のケースでは、犯人は警官が拳銃を抜いて威嚇したところ、抵抗を断念、武器を捨てたという。
ナイフ程度では拳銃に抵抗できず、警察の武力はテロに勝ったのである。
犯行の発生は防げなかったが、今回のケースは地の利(警察署が近い)もあり、迅速に犯人の凶行を止め、被害の拡大を阻止できた。
図らずもテレビドラマで、「被害者を安心させることが第一」というようなフレーズを聴いたところだ。
(このドラマの主人公役は、以前同じくドラマで、バタフライナイフを使い、槍玉にあげられた。
もちろん、安易にテレビに影響され、悪用する者が悪いのであって、彼に非は無かったと思う。)
政府,マスコミは、警察はいちはやく駆けつけ、速やかに事件を解決する能力があったこと、武力は有益であり、善良な市民を守ること、犯人はこのように無様に捕まり、決して悪役ヒーローにはならないことをアナウンスすることが出来たはずである。
そうすれば模倣を考える連中を萎縮させる効果は高い。
いたずらに恐怖を煽るのではなく、再発を防止し、安心させることが出来たはずである。
つまり、この事件の処理,アナウンスに、大きな対策を講じる余地、チャンスがあったと思う。
そして、それを棒に振ったのは、後述するが、ナイフを槍玉にあげようとしている心理と同じ、武器,武力への嫌悪だったと思う。

マスコミがその後もミリタリー関連に対し差別的な扱いをし、ご遺族や被害者の方に取材攻勢をかけて迷惑を考えず、また加害者の家族まで引っ張り出して謝罪をさせることへの是非はここでは敢えて論じない。
それより問題にしたいのは、人々を安心させようとせず、逆に効果に疑問のあるダガーナイフ規制をして終わり、になることである。

[他の対策について]
そしてこれは、刑罰の抑止効果が効かなかったのではないかと思われるが、ならばどのような対策を講じるべきか、を考えなければいけないのではないだろうか。
犯人が6/8を犯行日に選んだのは、大阪の事件を意識してのことだと思うが、ここで舞台が変わったことにも着目したい。
現在,学校や登下校の安全には、少なからぬ努力が払われ、今回たまたまかも知れないが、標的にされることはなかった。

駅などは既に警備に気を使っている様子も伺えるが、今後はこのような歩行者天国,大規模店舗でも、凶悪犯罪を想定した警備を進め、また安全な場所を消費者も志向するように訴えることが必要になってくるのではないだろうか。

そして、今になって振り返れば、ある程度このような事態が起きる危険を予期できたのではないかと思うのだ。
秋葉原の歩行者天国では、少し前から問題行動がクローズアップされていたように思う。
窓ガラスが割られ、落書きがいっぱいあるところでは犯罪が増える、というように、小さな予兆ともとれるモラルの低下,軽微な犯罪が見られる場所に、凶悪で重度の犯罪が引き寄せられていくのではないだろうか。
事後なら何とでも言えることかも知れないが、重大犯罪の予兆を捉えて予防に努めることが、今回の痛ましい犠牲を無駄にしない方策ではないだろうか。

また、犯人の心情も犯行に至る直前まで、揺れ動いており、頻繁にメールを発して、自分を警察に捕まえて欲しかったのではないかと思わせるフシがあっった。
もちろん膨大な情報があり、このような犯行予告は大抵偽物であり、いちいち動いていられない、ということもある。
しかし、総務省はネット情報を自動的に検知,通報するシステムの開発に乗り出すといっており、そのときには、上記のような心理学的な「読み」も確率を上げる上で役立つはずだ。

その上で我々に出来ること、もう想像がついたかも知れないが、「これぐらいは構わないだろう」と調子に乗ってハメを外した行為が、このような犯罪の連鎖の発端になる可能性を自覚し、エアガンやナイフの運用でもネット,携帯メールの書き込みでも、ルールの遵守,迷惑行為の一掃など、自らを厳しく律するべきではないだろうか。
自由には、当然責任,義務がついてまわる。
これらの行為が、規制の強化を許すだけでなく、もしかすると次に自分や、その大切な人々に凶悪な犯罪がふりかかることを助長しているのだという認識を持っていただきたいと思う。
我々が生命の安全や趣味の自由を守りたいなら、高いモラルの実践が求められるのではないだろうか。

[趣味,嗜好の違いについて]
被害があるから趣味の自由を認めないというなら、スィーツや酒などの嗜好性食品、硬式野球、ゴルフなどのスポーツも禁じるべきである。

菓子の類は食料ではないし、スポーツも生産性のある労働ではない。
つまり、「楽しむ」という一点を除けば、無くても生活に困らず、そして害のあるものである。
習慣性のある嗜好品の害だけでなく、甘みは強い誘惑効果があり、肥満が原因での死,疾病に少なからず関与し、そしてこれは既に無視できない数である。
スポーツ用品の悪用も常に発生し、スポーツ自体でも死者を発生させている。
危険性という点でも、これらとナイフには差が無いのではないか。

そしてもし、自分の好きなものは良く、嫌いなモノは取り締まれ、というなら、それは利己的なダブルスタンダードであり、許されることではない。
嫌いだから排除する、という姿勢、それは正にイジメの構図ではないのか。
このような感情(ナイフ嫌い)が、例え多数でも、不当な扱いは多数決で阻却(多数が嫌いなら好きな人からも取り上げていい)できないことは子供でも理解できる理屈である。
デザートに例えるなら、ドリアン禁止法は許されるだろうか。
以前グロックG17モデルガンのところで、正義について考えたことがあるが、ロールズの正義論では、公正としての正義の第一原理として、各人には基本的自由に対する平等の権利があること、とされており、これに従うと、趣味に優劣をつけ差別することも、正義に反するのではないだろうか。

少し古いが、浜崎あゆみの歌で、「TO BE」という曲がある。
この歪んだ、人にはガラクタにしか見えないモノを大切にする気持ちを、私も認めたいし、守っていきたいと思う。

[ナイフの実用性]
また、憲法に謳われているように、公共の福祉に反しない限りにおいて、幸福の追求は認められるべきである。
今回犯行に使用された道具のうち、トラックは使用目的が公共の福祉に沿っているから、被害が出てもお咎めは無し、ナイフがいけないのは、趣味のものだから、という判断があると思う。
これについては、確かに公共性という点で、その割合が違う。
しかし、同様にスポーツ・カーは禁止されているだろうか。
ナイフも実用性はある。ダガーナイフでキャベツを切ることが出来ないならともかく、料理にも使えるし、釣りやダイビング,ハンティングではプロがナイフを使用している。
逆にいえば、そのルックスに捉われて、果物ナイフとスポーツナイフで極端に判断を変えるのは、やはり何か、別の根拠があるのではないか。

[武器,武力への嫌悪について]
つまるところ、趣味を平等に評価せず、ナイフへの規制を容認するのは、気持ちの問題、武器は忌み嫌うべきもの、という占入観ではないだろうか。
ここには、コトダマ信仰とケガレ思想による日本人の自覚なき宗教観による武器嫌悪意識があると思う。
この意識とその問題については、井沢元彦氏の「逆説の日本史」を参考にされたい。
逆説の日本史 (3) (小学館文庫)逆説の日本史 (3) (小学館文庫)
(1998/04)
井沢 元彦

商品詳細を見る

逆説の日本史〈4〉中世鳴動編―ケガレ思想と差別の謎 (小学館文庫)逆説の日本史〈4〉中世鳴動編―ケガレ思想と差別の謎 (小学館文庫)
(1998/12)
井沢 元彦

商品詳細を見る


但しこの感を持つことは、まさに信教の自由と同じで矯正を強要できるものではない。
しかし、これを無自覚に潜在的に内包するのと、自分たちの性質について理解したうえで、より客観的に事態の対処を考えるのとでは、全く違う結論が出ると思う。

いやこれは感情でなく、信条、しかも多くの犠牲を出した戦争の教訓で、譲ることのできないものだ、という方もいるかも知れない。それについてはまた下で論じたい。

[武器,もしくはその周辺の全否定について]
ここで以前、AK47(過去の記事)を取り上げたとき、武器,武力についても少し考えている。
武器の根絶は、現代の文明,技術の否定であり、また武器にまつわるものだけを抽出して廃棄するような真似は出来ないのではないかと考えている。
そして、ここまで武器を忌み嫌い、無視しようとしているのは、世界でも日本ぐらいではないだろうか。
既に大きな武力を持ち、世界最強といわれる米国の武力を背景に”安全を保障”されているにもかかわらず、である。
それは、上記の井沢氏が指摘するように、平安時代からの宗教観だと思う。
しかし武器反対派は、これをより進んだ、理性的な見識だと考えているのではないか(これは武器肯定派の”偏見”かも知れないが)。
それなら議論だが、武力を行使しない保障を、どこか他国が日本に対して行っただろうか。
そして、もしそのようなことがあったとして、その口約束(国家間だからペーパーはあるが、歴史上常に紙は破られる恐れのある、正に物理的な性質と同じく、薄いものでしかない)を守らせる力が、どこにあるだろうか。
経済力,食料では、人道的な手段だろうか。
支援,協力をしない、というのは邪魔をするのとは違うし、別に日本人を拉致しているテロ国家を擁護するつもりは無いが、兵糧攻めも立派な攻撃で、撃つのも飢えさせるのも同じ結果、いやもっと長く苦しめる行為ではないだろうか。
話を戻して、相手の信義に全てを委ねるといっても、自国の中でもこれだけ凶悪な犯罪が生まれているのである。
日本の周りを見てほしい。押し並べて皆日本と領土について争いがあり、人権を抑圧し、また生存権まで脅かされて難民として逃れる者が後を絶たない国まである。
先程の話だが、未だにその日本人を拉致したまま、返さない国もある。
現に日本人の人権を蹂躙し続けているところまで(全て、でないと非武装で国を維持できない)あるのだ。
全く成り立たない話ではないだろうか。
結局、武器の排除思想は、先ほど触れた、嫌いなものは無視(日本に武力は無い事にまで!)するという、子供じみた独善ではないだろうか。

[檻の中は安全か]
話を元に戻そう。
過剰な規制は宗教儀礼と同じ、いやオカルトであり、多くの害を及ぼす割に利益は少ないように思う。
既にモデルガン,エアガンの規制、ナイフでもバヨネット,ジャックナイフの禁止があり、またバタフライナイフの自主規制などを行っても、今回のダガーナイフのような事例が起こる。
そしてこれからも、いくらでも新しい形の刃物が登場するはずであり、今回の両刃の刃物にしても、片面を研げば、ある程度同じ効果のある凶器が「簡単に」作り出せる。
いや、根本に立ち戻れば、凶器はダガーである必要は無い。
多くの場でも語られているように、悪意があれば、包丁でも鉈でも犯行は可能だ。
規制を強化すれば安全であるという神話は、既に崩れていると思う。
例え趣味をみな禁じ、自ら檻の中に入っても、その隙間からいくらでも危険は入ってくるのである。

規制とは違う話だが、官憲の武力についても、今回のように事実があっても、嫌悪感から評価しないのは、非常に遺憾な態度である。
安全を守る上で重要な武力を軽視、暴力に対しては、逃げるに勝る兵法なしで、蜘蛛の子を散らすように逃げ、遅いものが被害に遭っている間に他のものが逃げ延びる、でいいのだろうか。
これこそ、弱肉強食で、弱い者に対して非情な社会ではないだろうか。
今回もまた、テロが起こったのであり、一層の防衛,対抗力強化(具体的にいうなら防刃チョッキを常時着用して、もっと制圧力の高い装備や、非致死性の武器の普及など)を考えるべきなのではないだろうか。

非暴力,非服従で独立したとされる国も、今や核保有国である。
南米では、過去にいくつもの帝国が抵抗を放棄して実際に滅亡させられている。
皮肉な言い方かもしれないが、争いの無い世界は、天国である。しかしそれはこの世ではない。
武力の行使は、それを受ける側からすれば単に暴力かも知れない。
しかし、完全な非武装は棒きれひとつ存在しない、ということであり、あり得ない話だと思う。
そして、その幻想が、実はテロを許し、弱い者を苦しめてはいないだろうか。

次回は、通常の形で再開できれば、と思う。そして、ナイフの記事ももうしばらく時間を置いたら、またUPするつもりである。
それでは。
OP/03



web拍手 by FC2
海の中道事件 続編
umi/01

前回、記事の中で番外編としてこの事件について少し触れた(M10 2インチの記事)ので、乗りかかった船でもあり、今回地裁判決を受けて独立した記事でこれを書くことにした。
従来の趣味のブログとは異なる趣旨で、せっかく覗きに来ていただいたトイガンファンの方には申し訳無いのだが、少し硬い話にお付き合いいただければ、と思う。
この話をするにあたっては、まず、幼くして命を絶たれた、今回の事故の犠牲者三名の方に、謹んで哀悼の意を捧げたい。
この尊い犠牲の為にも、事故と裁判の行方について、地裁の判決が出た今、考えてみるべきであると思う。

また記事の前後に人形の写真を付けているが、これはこのブログの体裁の為であり、本人も迷ったがこの表現方法とさせてもらった。もし気分を害された方がおられたら先にお詫びする。

[酔っていたかの判断]
今度は判決が議論を生んでいる。
訴因を追加させたときからこれは予想できたが、ある意味予想以上の温情判決に、驚かされた。
偽装工作を行う冷静さがあるので、泥酔とはいえない、とまで判断しているとのこと。
弁護側の問題を以前訴えていたが、法廷全体にこのような、一般の認識からかけ離れた加害者の味方意識が浸透しているとするとかなり問題である。

確かに、刑法事案の場合、「疑わしきは、被告人の利益に」である。
しかし、あくまで呼気のアルコール検査によらなければ、「疑わしき」状態なのだろうか。
飲酒量とそれを消費した時間については、この裁判でも、既にかなり明らかになっているようだ。
どんなに酒に強い人でも、飲酒すれば通常の状態の反応速度、判断力は維持できないと思う。
警察側の研究だが、科学警察研究所の発表によると、酒に強い,弱いに関わらず、反応時間の遅れが認められるという。

また、今回の事故態様が明らかに、「通常の判断力で」運転していて発生しないと思う。
何より直線道路での追突であり、一瞬のわき見ではこれだけの事故は起こらない。
今回の事例は、通常の状態では考え難いほど注意力が低下していた、と判断するべきではないだろうか。
多くの酒を飲んでおり、通常の判断力なら避けられた事故を起こしている。原因と結果が揃えば、これは「酔っていた」証明になるのではないか。
酒気帯び運転の場合と異なり、酒酔い運転の場合の基準は呼気のアルコール濃度検査に基づいていない。
酔っているかどうかの判断は、本来精神医学 神経生理学的に判断すべきとの医学側からの意見もあるようだ。
そうすると、単に呼気のアルコール濃度を測っても、一定の目安にしかならないことになり、逆に上記の手法に近い、その行動から(つまり事故の態様から)判断するほうが、まだ科学的だとは言えないだろうか。
呼気による体内のアルコール濃度推定(これも、間接的な方法ともいえるのだ)以外に、近年、飲酒量から体内のアルコール濃度を推定する、ウィドマーク法によって計算された結果が、証拠として法廷に提出されているが、これを採用して有罪となった例はまだ見られないようだ。
今回の事例でもそうだが、「酔っている」状態の証拠は揃い難い。
それなら、偽装工作無く速やかに検査に応じなければ、状況証拠を覆せない、という判例を作れないだろうか。

またアルコールの血中濃度より正確さという点では低いものと思われる、しかも「偽装された」検査結果に拘る裁判官の姿勢は、更に不確実な「証拠」を金科玉条のようにかざしていることにならないだろうか。
これは、数字として明確に表されているものが客観的で確実である、というデータ至上主義とでもいうべき誤り、または難しい判断を避け、数字を示せば非難されにくいという、事なかれ主義に陥っているのではないだろうか。

また、判決がさほど酔っていない推定要因として挙げているのは、運転を始めてから8分ほどの間事故が無く、狭い路地などを抜けているからだという。
これは、運転開始直後は酔っていても緊張を維持できただけではないだろうか。

以前、未明(夜明け前)に車を運転していて、前を行く車が飲酒運転で横転事故を起こすのをちょうど目撃したことがある。
このときは、飲食店から出た車が最初はちゃんと走り出し、二度ゆっくり車線をまたいで(直進しているつもりが徐々にづれていき)、これに気づいて元の車線に戻る、ということをやった。
これはおかしいな、危ないから注意すべきかな(全く見知らぬ他人だが)と思っていたら、今度は道端に寄ってしまい、車の進入止めに乗り上げてあえなく横転してしまった。
この目撃例では、最初から全く運転できていないのではない。
車線を越えたといっても、すぐクイックに戻してその後しばらくそれを維持しており、これが蛇行を繰り返したとまではいえないと思う。
わき見の状態が2回あったのと同じである。
飲酒運転の事例として、その傾向は似たものが無いだろうか。

直線での追突事故でよく言われる、「ぼうっとしていた」状態になるのは、単調な状態になり刺激の少ない状況の方が、集中力を欠きやすいからではないか。
そして飲酒の影響を補うべく、運転開始当初は覚醒を心がけて注意力を維持していたものが、この慢心により低下したのではないか。
運転を始めてから数分は一応事故もなく運転できたというが、逆にその位が緊張を維持できる限界だったのではないか。

そしてこのような飲酒の影響については、個人的経験だけでなく、既に科学的見地からの検証が行われ、交通安全の啓発活動などに使われているように思う。
これに対し、報道を見る限りでは、判決には、飲酒の影響についての知見や、科学的考察が伺えないように思う。

[制御不可能な速度]
また、今回の事件は、橋の上の事故であり、法定速度50キロ(km/時)のところを、倍の100キロで走行している。
速度超過50キロ以上は、それだけで免許停止確定で、速度超過では最も悪質(大きな違反)なランクに入る。
更に橋の欄干は当然法定速度をもとに強度を検討していると思うので、倍の速度で走行し、走っている前車に追突した場合、欄干を突き破って転落する危険は“予測できた”といえないだろうか。
普通の平面道路と違って、転落の怖れがあり、そうなると非常に危険なところを、法定速度の倍,50キロ以上超過で走る、これを危険運転とみなすわけにはいかないだろうか。

この道路を加害者が通常100キロで走っていたというが、いつも違反していたからといって、それはたまたま事故を起こさなかっただけ、ともいえる。
これは安全を証明するものでもないし、ましてやその速度を容認すべき事情とはならないだろう。
これで事故の責任が低減されるなら、違反の奨励になってしまうと思う。

また、実際の走行条件は、場所ごとに、または気象条件などにより刻々変化する。
このため、一律に定めた法定速度だけを基準には出来ない部分もあると思う。
それではどのような状態なら危険運転の要件を満たすか、で判断できないだろうか。
今回の事例では、直前でブレーキをかけ、ハンドル操作で回避しようとしたがぶつかったようだ。
回避はもちろん、制動,停止も制御のうちである。つまり制御できずに追突しており、この事例は正に危険運転の要件を充足しているのではないか。

[わき見が主原因か]
くどいようだが、わき見が事故の主な原因、とは出来ないと思う。
それまで適正な速度,車間距離を保っていたなら、一般に交通教本等で使われる1秒程度のわき見なら、制動,回避不可能なまで事態は急迫しない。
逆にいえば、回避できるだけの距離、それが安全な車間距離である。
前方不注視の直線追突の場合、居眠りが原因であることが多いのは、被害車両の急ブレーキや急な車線変更などがなければ、一瞬のわき見では事故にはならないからだ。
更にいえば、事故当時、加害者は何を見ていたというのだろうか。
以前、多くの被害者を出した事故で、車内のオーディオ機器を操作しているうちに事故を起こしたと主張しているものがあったが(これが認められたかは知らないが)、このような加害者が注視すべきものが具体的に語られたのだろうか。
わき見というのは、何かを見ていた状態である。
進行方向でない方角を、目的も無く眺め続けたというのなら、これは「通常の判断力がある」状態ではない。

[危険運転致死傷罪の意味]
確かにまだ若い青年に7年以上の実刑を科すというのは、非常に重い結果になるし、それだけ長い懲役が果たして本人の更正の為になるか、というと疑問も残る。
まだ社会には飲酒運転を引き起こす環境が残っており、今回の事例でも彼が一人自宅で酒を飲み、自動車の運転を始めたのではなく、幾人も関係する周辺の人間がいたようである。
彼は事故後、被害者を救出するどころか、自己保身の為の数々の隠ぺい工作を弄しており、これは非常に悪質な行為と言えるのだが、若さゆえ自分のこれからのことを考えて一種のパニック状態に陥り、見境無く見苦しい、愚かな行動をとってしまったのかも知れない。
また、この事件は当初からマスコミに大きく取り上げられた。
法律制定の機運、世論を意識してかマスコミの論調が魔女狩りよろしく、当然彼に厳罰が下されるものという前提に立った、偏ったものだった可能性もある。
彼一人が飲酒事故問題のスケープゴートになり、過酷な責任を背負わされるのであれば、これは慎重になるべきである。

しかし、だからといって法律の趣旨を無視し、また以上述べたように到底納得、賛同できないような理由をつけて適用を見送ってはいけないと思う。
この法律の適用は、彼一人の問題では無い。
法廷の場では、しばしばなおざりにされがちな事故の被害者、それも今回の被害者だけではなく、未来の、残念ながら決して少なくないと予測される飲酒運転事故被害者の危険を考えるべきだ。
裁判官には、目の前の被告(加害者)を見るだけでなく、社会の規範を作っているのだという認識を忘れず、時には鬼になってでも正義を示して欲しいものである。

[刑罰が薄まる危険]
ついでにいえば、刑法制定から非常に長い年月が経っており、刑期を全て見直してもいいのではないか、と思う。
人生50年の時代から、現在平均寿命80歳になろうかという時代である。人の命にかかわる罪などは、1.5倍にしても制定時の趣旨に沿うと思うのだが。

また今回の法律は新しいものだが、刑の適用と判例の歴史的傾向についても。
現在の法制は判例の積み重ねが量刑に一定の基準を与えているのだが、これは長い年月を経ると、量刑が軽くなる傾向が生まれるのではないかと思う。
判例は当然、個々の事例によって量刑が異なるが、各裁判所が一応独立して判断するので、ばらつきが生じる。
更に最高裁でも、裁判官が代わるので、そこにある程度量刑の差は生じる。
そして、この中で平均的な量刑を考えるとしても、公平性の観点から以前の量刑より重くは出来ない、という判断が入ると、次第に軽い方へ移行してくる傾向があるのではないか、と思う。
特に被告人の人権重視の判断がある場合、刑は軽くなる方向へ行くのではないだろうか。
これを修正するには、一定期間を過ぎたところで、法自体を改正して補正するか、大きな流れで判例を捉え、量刑の体系を見直しながら事例に当たるかが必要なのではないだろうか。そうしないと、次第に法は効力が薄まっていくという心配は、杞憂だろうか。

[法の精神の実現]
判例が出てきたところで、古い判例だが、事故で死亡前に「残念」と言い遺したことを、慰謝料請求の意思と認めたものがあった。当時の裁判官は、法の精神を実現するよう、法文の足りないところを解釈で補っていたように思う。
法文の記述は、細かすぎても、大雑把過ぎてもいけない。
どちらも“使えない”法になるからである。

厳しい刑罰の法には厳しい要件を、という意見もあるが、これは裁かれる行為の明白性と運用可能性とのバランスから考えるべき問題で、ともかく細かく,厳しい要件では破防法のように絵に書いた餅になる。
そしてこれは立法の、国会の場で議論され、合意をみた結果法律として成立するものである。
また、運用面で厳し過ぎる解釈が行われると、更に要件を緩和した、「目的外にも適用可能」な法律が生まれてくる危険性が増す。

最も厳しい刑が適用される殺人については、非常に短い「人ヲ殺シタル」という要件だけである。
そして昔も今も、「殺意の有無」が争点になるが、これは突き詰めれば加害者の心の内のことであり、裁かれる本人しか知りえないことである。

そして、裁判官は個人的にこの法律を良く思っていない、ということもあり得るし、意見を持つこと自体は決して悪いことではない。
もちろん無知から悪法が出来ることはあるし、それは専門家からの意見として廃止,改正を訴える必要はあるだろう。
但しその法律が施行されている以上、たとえ悪法でも、それが民意である。
出来た法律は国民も司法も遵守するのが、民主主義である。
以前、判決に立法上の不備を指摘し、現行法の限界を訴えるものがあったが、可能な行為はここまでではないか。
裁判官は、自分の意見は意見、仕事は仕事としてきちんとその運用を行わなければならないはずだ。

またこの法律は禁酒法のように全面禁止ではないが、愛飲家には面白くない話であり、製造,販売(飲食店)業者にとっては(違法な行為の結果の、本来守られるべき利益ではないかもしれないが)少なからぬ損害を発生させているものである。
また、もともと条件反射の早い人もいれば遅い人もいるのだが、現在の運転免許制度では、そこまで適性を問わないで国民の過半数に運転を許している。
更に高齢運転者も増えており、その事故も最近問題になっている。
これらとのバランスを考えると、果たして飲酒をとりわけ重い罪に問うべきか、という問題がある。

何も立法や民間の意見のお先鋒を担げとはいわない。
ただ、もしも異を唱えるなら、他を納得させられるだけの検討が行えているか、威厳を保てるだけの中身があるのかを、まず自問すべきではないだろうか。

報道内容だけの判断では、正確さを欠くと思うが、今回の判決に、危険運転致死傷罪を否定するだけの真実、否定できるだけの説得力は、無いのではないかと思う。
そして感じられるのは、責任を持つべき者の、弱さである。
以前、警察官が射殺された時の政府関係者の態度について(MP5の記事)指摘したが、この判決は、今、責任を持って毅然とした態度で事態に臨む、という強い意志が、命にかかわる重大な任務にあるものに欠けていることを危惧させる。
もちろん、判決については両論あると思う。そしてそれぞれの立場の者が、それぞれ持つ場でより深く交通事故について考えていただければと思う。

この事件に関わった方々に個人的な感情は無く、それぞれの職業的内容、法的な被告(加害者)の立場につき,、上の考えを述べさせてもらうものである。
また、直接取材などを行ったことはなく、報道記事を元に書いている。
このため敢えて個人名を記さない形で書かせてもらったが、それぞれ感情を持つ人間である。不快な思いでこれを見られた方にはお詫びしたい。

今後の裁判の行方にも関心はあるのだが、一応この問題についてはこれで終わりたい。

参考資料
警視庁 アルコールが運転に及ぼす影響
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kotu/insyu/insyu1.htm
科学警察研究所交通安全研究室 調査報告
http://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku190906/pdf/kakeiken_kenkyu.pdf

自動車技術会 論文集2004年Vol35No4 藤田悟郎
アルコール代謝の個人差と低濃度アルコールが運転に及ぼす影響

武蔵工業大学 計画・交通研究室 学生論文 西島英弘
飲酒が運転者の運転挙動及び生理特性に及ぼす影響
http://www.civil.musashi-tech.ac.jp/user-kigyou/2005cd/pdf/c_ronbun20.pdf

アルコールに関する法医学関連事項
http://tsstudio.s12.xrea.com/med/lmedalch.html

umi/02

次回はもちろん通常の形、トイガンレポートで超ロングサイズのオートを予定している。
ではまた。

web拍手 by FC2

| HOME |

Design by mi104c.
Copyright © 2017 Gun1+1/6, All rights reserved.
まとめ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。