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今回は少し趣向を変え、今年話題となった映画、漫画の規制についてを。

eiga/01

まず記事のスタイルについてだが、発言や著作文の引用部分を「」で、
漫画,映画及び単行本名などは『』で表し、特に話題として記述するもの
を除き出版,制作元の記載は省略させていただくことをご了承願いたい。

そしていつものようにドールに銃を持たせた画像を使っているが、これは
表現の自由を制限しようという動きに対する抗議のつもりである。

もし他のキーワードなどで検索されてここを見て、嫌悪感を覚えた方には
申し訳ないが、せっかく覗いて下さったのでもあるし、どうか一度記事を
読み、そして考えていただければ、と思う。

今回は端から端まで個人の考えを述べさせてもらっている。
私は、以下述べるような”度を越した”表現規制に反対である。
それは効果が望めないこと、子供の刺激に対する耐性を下げ、判断力を
スポイルすること、そして表現者の権利を侵害するから、である。

『風立ちぬ』について
この夏公開された宮崎駿氏の映画『風たちぬ』で喫煙シーンが多かった、
としてNPO法人である日本禁煙学会が要望(内容では苦言としている)を
行った。
この主張によると、『風たちぬ』はWHOで採択,発効した『タバコ規制
枠組み条約』に違反し、煙草の宣伝にあたる、という。

これに対し、喫煙文化研究会が「当時の状況を再現するにあたっては
極めて一般的な描写」とし、表現の自由に対する侵害にあたる日本禁煙
学会の要望は「意味をなさない」と主張した。

『風立ちぬ』の制作側はこの件に関してコメントしていないようだが、
映画の公開は年齢規制なども無く続行され、既に多くの観客が観ている。

煙草メーカーの広告については、直接コマーシャルを流すことはもちろん、
モータースポーツの世界から排除されるなど、規制は既に広がっている。
しかし映画や漫画などの喫煙シーン規制が必要で、また世界的に
認められているか、については疑問がある。

喫煙の害、については既に有意とされ、受動喫煙の危険性も指摘されて
いる。
私は喫煙習慣が無く、愛煙派を擁護するつもりもないのだが、他人に迷惑
をかけない(嫌悪感情までは保護すべきとは思わない)範囲でなら、成人
が喫煙することは法が許している、守られるべき権利、ではないかと思う。

これは以前ナイフ規制の時に述べたが、公共の福祉に反する、つまり他人
に迷惑をかけない範囲でなら、趣味嗜好は個人の自由であり、尊重される
べきだと思うからだ。

宮崎駿氏の作品では『紅の豚』で主人公が愛煙家として描かれ、他でも
既に喫煙シーンは多く描かれており、いまさら『風立ちぬ』だけを何故
問題視するのか、非常に疑問に思う。

そもそも、子供が喫煙の様子を見て真似る、というなら、屋外での喫煙は
もちろん、ガラス貼りの喫煙ルームも禁止しなければならないはずだ。

喫煙シーンの排除要求は、映像に強い印象を与える効果があるため、と
しているようだが、果たして身近で頻繁に”リアルな”喫煙行動を見る
よりも影響が大きいだろうか。

また、水銀やアヘンの摂取,吸引についての表現があったとして、我々は
それを全く考えることなく、猿真似して習慣化するだろうか。

放射能を浴びて巨大化し、炎を吹くゴジラの姿を見て、放射能を浴びよう
と思うだろうか。

言わせてもらえば、現在の非喫煙者の多くは、周囲の喫煙を見て育ち、
また自ら喫煙していたのを止めた方も少なくないはずである。

環境の要因に反し、現在多くの人が禁煙(はじめから喫煙しない、も
含めて)を選んでいるのである。

これからの世代が、喫煙の害を訴える声を聞かず、映画を見ただけで喫煙
を始めるだろうか。

『はだしのゲン』について
松江市教育員会は、市の小中学校に対し中沢啓治氏の漫画『はだしのゲン』
を自由に閲覧できない閉架措置を求め、多くの学校がこれに応じたという。

これが全国ニュースで報じられたあと、反対する声が多く寄せられ、
日本図書館協会が再考を求める要望書を送るなどしたため、市教委は再
協議を行い、閉架措置要望を取り消している。

ことの発端は、市民が市議会で『はだしのゲン』は歴史認識に問題がある
ため撤去するように、と求めたためだという。

市議会はこの要望を不採択としたが、市教委がこの機会に本作を読み返した
ところ、子供に見せるには”暴力表現が過激”(複数の新聞による表現)で
あるとして、閉架処置を求めることにしたという。

朝日新聞によると、「市教委によると、描写が残虐と判断したのは、旧
日本軍人がアジアの人々の首を切り落としたり、銃剣術の的にしたりする
場面」としている。

まずこの記事の信ぴょう性だが、なぜ旧日本軍の行為のみが”残虐”
なのだろうか。

この漫画は、米軍による広島への原爆投下がメインテーマである。つまり
原爆攻撃の残虐さ、非人道さが全編にわたって描かれており、その凄惨な
被害の様は、正に地獄絵図である。

市教委は、何故この残虐性を”見過ごし”、対する日本軍が他のアジアで
行った行為の残虐性のみを問題にしたのか。

ひとつに、この判断は”思想的背景”があることが考えられる。
次に、報道が”偏向”している可能性も考えられると思う。

問題とされるシーンをニュースで見て驚いたのは、それらは朝日新聞が
行った自虐,中国追従の虚報記事とそれをまとめた『中国の旅』や
著者である本多勝一氏の一連の著作を思い出す内容だったことだ。

この問題については、既に多くの記事,著作があるのでここでは深く
追求しないが、単なる誤報,一方的な主張の掲載ではなく、違う写真を
使って読者を欺こうとするなど作為があり(あくまで私の主観だが)、
”思想的背景”に基づく洗脳、だったといってもいいと思う。

朝日のこのキャンペーンは一時多くの文化人,教養人が”騙され”、今も
日中の関係に少なからぬ問題を残していると思う。

『はだしのゲン』も、この虚報を鵜呑みにし、宣伝に加わった作品
である。

ここで浮かんできたのは、市教委がこの描写の間違いについて認識し、
教育機関で置く図書としては不適切、と判断した可能性だ。

そして、”当時の犯人”である朝日新聞や、一緒になって誤った歴史認識
で”言論攻撃”を行ったマスコミが、羹に懲りてこの”誤り”について
言及を避け、原因を”描写が残虐”へとすり替えたのではないか、という
疑念が浮かぶ。

ちなみに今回の騒動が元で『はだしのゲン』は通常の3倍の販売量になり、
撤去を求めた側(こちらも思想的背景があったようだが)の意図は失敗
どころか、大きな逆効果を生んでいる。

『少年H』について
朝日新聞,朝日放送は今年夏(他の協賛企業と共に、だが)妹尾河童氏の
『少年H』を映画化、公開した。

映画については現在も朝日放送がTV番組中やCMでキャンペーンを展開し、
『風立ちぬ』の首位には遠く及ばないものの、公開当初7位(興行通信社
調べ)を記録したという。

朝日は『風立ちぬ』と思想的、営業的に相いれず対抗馬を立てたかった
(日本テレビが制作に関わっている)、憲法改正が囁かれるいま、
”平和を訴える”作品でアピールする必要を考えた、など憶測することも
できるが、しかし、なぜ『少年H』を取り上げようと思ったのか理解に
苦しむ。

この作品については、児童文学賞の選考委員であった山中恒氏が候補と
なった本作を読んだところ、”自伝的”というには程遠い内容に驚愕し
上梓した『間違いだらけの少年H』が詳しいが、事実の時系列、情報が
一般に知り得たか、など多くの誤り,疑問点があり、この指摘を受けて
妹尾河童氏自身も文庫化にあたり多くの修正を行ったという。

しかし、作品の根幹に関わる部分にも誤りはあり、更に追求すれば
そもそもこの話は成立しない(これも私個人の見解だ)。

もちろん、これがSFであり、戦後の情報を知っている少年がタイム
スリップした戦時中の世界で苦しむ、という内容なら問題はない。

今回の映画化にあたって、原作を”自伝的小説”(小説は虚構の話)
とわざわざ注釈を付けているが、話の不都合な部分には目をつぶり、
”大きな声で訴えれば多くの賛同を得られる”式のキャンペーンには
目を覆いたくなる。

上映前後に”フィクション”だという説明がされているのだろうか。

もし、”実話に基づいた”といっているなら、”オレだよオレ”とは
言ったが間違えたのは向こうだ、というような詐術の類となんら
変わらない”誘導”なのではないかと思う。

この作品に感動があれば、それはフィクションであるか否かに関係無く、
文芸作品として評価されるべきであるし、観客が騙されていないなら、
これも表現の自由であり、公開自体に苦言を呈するつもりはない。

また、『少年H』に問題があるとしても、妹尾河童氏の舞台美術の評価、
『河童が覗いたトイレまんだら』など他の著作の評価には関係がなく、
細かいところまで描いた俯瞰図とエッセイの妙は素晴らしい。

しかし、この話がウソである以上、この映画で太平洋戦争に導いた者、
従った者の愚を論じるべきではないと思う。

その観点でいえば、このようなキャンペーンは戦争の是非や平和を真剣
に考える者の足を引っ張っていると思う。

そもそも、戦時中、特高による拷問を伴う”指導”や、軍人会などの圧力
があったとはいえ、情報操作どころか軍国主義礼賛のキャンペーンを張り、
お先棒を担いだ”張本人”が、今度は反戦の為に”ウソも方便”と都合の
良い話を作る、というのは、「真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的
精神を持してその中正を期す」という看板とは相容れない姿勢が相も
変わらず続いているのでは、と思う。

教育に過剰な情報規制は有用か
これらの動きは、表現を規制しようとする側、表現を行う側双方が、
自らの思想信条の浸透,他の思想信条の排除の目的を持っており、
それを表向きは”教育”としている(信じる者にとっては、洗脳,偏向
でなく教育なのだ)、せざるを得ない(でないと一方的な思想の押し付け
を認めることになる)ところが、余計に本質をわかりにくくしている
のかも知れない
(科学的根拠に拠らない行き過ぎた”嫌煙”などは、もう思想を超えて
”宗教”の域にあると思う)。

しかし、”有害なもの”を遠ざけ、全く排除した環境で育てば、その者が
期待した通りの”素直で品行方正、聡明な若者”が育つだろうか。

”有害なもの”に毒されるのは、若者が誘惑に弱く、耽美で怠惰に流され
やすいから、ではなく、自らが信じる思想が”信じるに値しない”偏った
考えに過ぎないから、とも考えられないだろうか。

そしてそれを認めるのが怖いから、他を攻撃,排除しようと躍起になる
のではないのか。

むしろ、現実と虚構の判断が出来る年齢なら、このような失敗の疑似体験
(漫画,映画を観ること)を踏まえ、自らの頭で考える訓練が、正しい
道へと導く有効な手段ではないだろうか。

情報を完全に遮断、制御出来ない以上、有害なもの、間違いを見極める
判断力を養うことが重要ではないだろうか。

『はだしのゲン』の撤去より、『ゴーマニズム宣言』や『中国の旅』、
上記の『少年H』と『間違いだらけの少年H』も置き、子供に自由に読ませ、
そして何が間違いか、一緒に考えるべきではないか。

そして単に判断する技術を習得させるべき、というに止まらず、むしろ
判断力の育成が教育の本質的目的(これだけではない、とは思うが)
ではないか、とも思う。

判断力
『はだしのゲン』の作者中沢啓治氏は、この作品で書く事について
悩んだが、子供たちは真実を見抜く力を持っていると信じて書いた旨の
コメントを漫画の表紙カバー裏に残している。

私は”大人の”中沢啓治氏が旧日本軍の暴行については誤った判断を
した、と思うが、これは大人の目が曇ったから、ではないし、詳しく
は後述するが”見抜く力”は生得的なものではなく、後天的なもの、
しかも常に磨かなければ維持,発展しないものではないかと思う。

教育評論家の尾木直樹氏は、『はだしのゲン』閲覧制限問題に対し、
「メディアリテラシーをどういう風に身につけさせるかに本腰を入れて
いない」とコメント(日本テレビ)された。

リテラシーとはレターから派生した言葉で、読み書きの能力だが、近年
発信者が隠そうとしている意図や目的まで批判的に見抜く能力といった
高い次元の判断力を指すようになってきているという。

メディアリテラシーについては、上記の尾木直樹氏や池上彰氏、
菅谷明子氏の著作があるが、問題はこの”媒体を読み解く”という制限
を超えて、広く”判断力”が問われていると思う。

また、エマニエル・カントは古典『判断力批判』で美的判断力から
目的論的判断力へと論を進めているが、奇しくも各論から判断力の
総合的評価を論じている。

考えるに判断力には情報(知識,経験)の蓄積と整理にかかる記憶力、
思考力,注意力及び洞察力を統合した解析力の双方が必要で、いわゆる
直感による判断でも、パターン化や判断基準点の絞込みで、思考という
プロセスをショートカットしているに過ぎないのではないかと思う。

子供の”純粋な”判断は、情報が少ないため、その整理や選択において
誤りが少なく、また”教えたこと”以外が無いので指導側の”思った
通り”の回答が帰ってきやすいため、かもしれない。

また子供は少ない知識に重きをおくことが出来ず、その少ない知識をフル
活用して思考を中心に結論を組み立てるため、非常に論理的な結論に
至る、という側面もあると思う。

個人的な話だが、幼い時に「10円が10枚で何円になる?」と聞かれて
私はしばらく考えたあと、「とうじゅうえん」と答えたという。

聞いた方は、逆に喜んで「それも間違いではない」と仰ったそうだが、
「一、十、百、千」という呼び方を知らなければ、「ひとつ、ふたつ
~」と数を数え、「とう」を十円につなぎ合わせる、という答えに
行き着いたのではないかと思う。

知識,経験が蓄積されれば、判断の基準や方法としてこちらの比重が
高くなると思うが、考えることを怠けるため、早い判断をするため、
知識,経験を頼むようになると、イレギュラーな事態で失敗することに
なる。

判断力は常に磨くべきもので、注意力が下がれば見直すべき重大な問題
を見逃してしまう。

事象にもよるが、経験を積んだ大人の判断は確率的に正しいことが多く、
経験による精度向上の効果は確かにあると思うが、それまでのセオリー
は時として通用しなくなり、往年の名選手,経営者が時として大きな
失敗を喫するのも、実は慢心,注意力の低下が原因、ではないかと思う。

群馬県立女子大学(体育)神山研究室が『適切な判断力』というテーマ
で解説をHPに掲載している。
ここでは体育の立場からアプローチし、疑似体験+理屈を基本構造と
しているが、知識+解析力を別の視点で捉えもの、と解してみると非常に
私見と近い。

私は自分が決して判断力に優れているとは思わない。
しかしそれゆえに、これからも判断力を磨いていきたい、とは
思っている。

そしてこれから教育に当たっている方々が判断力の育成を念頭に
おき、子供たちが知識を蓄え、思考を深めていくなら、視力,聴力が
衰え、残りの時間が少ない私などよりも高い判断力を身につけて
玉石混交かつ膨大な量の情報を流し続ける現代社会から、豊かな実りを
得てくれるに違いないと思う。

最後になったが、画像の盗用はもちろん、LINKも許諾等の問題が
あった為、敢えて設定していない。
各文献、映画はワード検索などで調べ、直接実物を見て(読んで)
頂きたい。

eiga/02

次回は通常の形に戻し、サコーのM60機関銃を、と思っている。

長い話にお付き合い頂き感謝。
では今回はここらへんで。

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赤い猫RRⅢ様 こんばんは

むかしむかしの私ごとですが、小学2年の夏休み読書感想文の題材に「海底二万海里(ジュール・ベルヌ)」を選びました。
感想文の前半は、子供にありきたりのSF技術に対する驚きでしたが、
後半は、ネモ艦長の戦争と怨念が理解できないことを書いた記憶です。
夏休み明けに感想文を提出したところ教師から呼ばれ、
「本当に読んだ上での感想文なのか?」「誰かに書いてもらったのか?」と問い詰められました。
教師の言い分と本音は「読むにはまだ早い」「採点できない」だったとおもいます。
「海底二万海里」は科学SF作品で有名ですが、一方で戦争を考えさせる作品でもあります。
最近の子供向けの図書「海底二万海里」は、戦争の部分が削除されたり曖昧な表現になっています。
「海底二万海里」から「戦争」を隠してしまうと作品の価値はありません。
学校教育の中には、「どの時期に何を題材とするか」という最低限の目安は示されていても、
「教えてはいけない、見せてはいけない」というネガティブな項目はないはずです。
教科書の選定時期になるといろいろなニュースがでてきますが、議論すべきといつも考える論点は、
「日本国政府が設置した日本国の学校は、日本人を創り育てる場所である」ということです。
子供人口の減少が止まりませんが、少ないながらも「日本人」であってほしいです。
【2013/08/28 23:13】 URL | ないとあい #n4jaW67w[ 編集]

ないとあい様こんばんは。
コメント有難うございます。

>教師から呼ばれ
生徒でも、出る杭は打たれる、のでしょうか?

私も”教えている事を超えて”答案を書き、評価されなかったりした事が
あります。

でも、理解を得られなかったことが、正に反面教師として、
自分で興味のあることを追求する契機にもなった気がします。

それに、社会に出れば、正に”上げ足とり””出る杭モグラ叩き”
な訳ですから、社会勉強でもあったかと。

>日本人
まあ学校だけに責任を押し付けても、と思いますし、自分にも出来ること、
ということでこんな”激オコプンプン丸”な記事を書いてみたりしているのですが、、、

日本を想う心は、故郷や家族、そして自分を想う心でもあるわけで、
センセイも生徒もなく、大切にして欲しいものです。
【2013/08/29 23:05】 URL | 赤い猫RRⅢ #-[ 編集]















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